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Blue Monday

好きなものを好きなだけ

MOTHER1+2を、大人になって、初めてやった

Mother1+2というゲームを、大人になって初めてやりました。

 

2まで完全にやり終えたとき、私はどうしても泣いてしまった。

 

ゲームの中では、私は完全に子供である「ぼく」。

 


「ぼく」はふつうのこどもで、少しだけ超能力が使えるけれど、外に出ればちょっと凶暴な犬だとか、怖いお兄さんにからまれたり、えらい大人の事情にふりまわされて、すぐに痛い目にあう。
ちょっと遠くまででかけると、ママのおいしいごはんが恋しくなって、家に帰りたくてたまらなくなる。

 

それでも、目の前に困っている人がいて、よくわからないけれど悪いことをしているやつがたくさんいるから、少しずつ勇気をふりしぼって、ボロボロになっても、少し休んでまた立ち上がって、少しずつ強くなっていく。
しかも、どうやら「ぼく」が世界を救うかもしれないことになっている。
ほんとうに?と疑いながらも、悪いやつはどんどん悪いことを思いついて、「ぼく」も少しだけ強くなれたから、戦ってみようと思う、そのうちに、「ぼく」が戦わないといけない、という気持ちが、膨らんでくる。
そうしているうちに、一緒に戦ってくれる友達ができて、できることでできないことを補いながら、いつのまにか遠くの場所に来てしまったような気がして、弱虫だった「ぼく」が、とっても強い「ぼく」になったような気がして、本当に世界を救ってしまった。

 

でも「ぼく」はこどもだ。
遠くの街では、「ぼく」の気持ちをわかってくれる大人が、大人どころか宇宙人や動物までも、やさしく見守ってくれる。
時々、ヒントをくれる。
そんなこと、きっと大人の中ではあたりまえのことなのかもしれないけれど、こどもの「ぼく」には、知らないことばかりだった。
危ないことにならないように、実は見張ってくれていたのかもしれない。

 

「ぼく」は本当に世界を救ったんだろうか?「世界」って、どこまでだろう?

 

「ぼく」が世界を救ったら、大人たちは、「ぼく」をほんとうにほめてくれた
勇気があって、思いやりがあって、どんなことがあってもあきらめないで、がんばったんだって。
「ぼく」はほんとうにえらい、いい子なんだって。

 

 

でもそれが虚構である事を、私は見抜いている。
ゲームをクリアすると、友達はそれぞれの生活に戻り、「ぼく」も家に帰る。
それは夏休みの一瞬の冒険だったのかも知れない。
「ぼく」もこれからは遊んで勉強して、立派な大人になるんだ。
ポーラやジェフといった友達も、それぞれの夢を叶えるために頑張っている、もしかしたら、また会う日が来るような気がする。

 

私もそろそろゲームを置いて、帰らなければいけない。
この世界はゲームのように守られた世界ではない。
ゲームが終わるとき、そのゲームの中の優しい世界から、飛び出さないといけない。
それは少し、怖い。
もう少しこのゲームの世界の中にいたいと思うけれど、きっとそういう訳にはいかない。
子供が母に守られているような空間で、ずっと母の手を握りながら、泣いている訳にはいかない。
私も「しばらく、さようなら」と、声をかける。

 

そして今日、いつもより少しだけ勇気を出そうと思える。


Motherはそんなゲームだ。

私が幼い頃に遊んだポケモンも、そんなゲームだった。
マサラタウンの家のテレビで、スタンド・バイ・ミーのように線路を歩いてる子供が「ぼく、もういかなきゃ!」と言う。
それはゲームの中で冒険が始まるときに目にするセリフでもあり、
ゲームを終えて家に戻って来たときに、もう一度目にするセリフだ。
もういかなきゃ、私自身の人生に、生活に、戻らなければ。

 

それでもどうにもうまくいかないこともある。
でも、そんな時に、また私はMotherに帰ってくることもできる。

 


「きっと また かえってくるのよ。
 くるしいときに ここに……
 みんな あなたたちを
 すきなんだから。」
( Mother1 マジカント クイーンマリーの城より)