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存在を揺るがすようなつらさの対処法を考える/「つらい」から「死のう」へと向かう感情について

 

#存在を揺るがすようなつらさの対処法を考える

 

ここで話す、つらいの種類。存在を揺るがすようなつらさ。

つらい感情の正体のひとつは、自分は最大限の努力をしているんだけれど、それでもどうにもならない部分があること。たとえば、先天的なもの、体の性別とか、アイデンティティに関わること。これが特に難しいものだと思う。それからひとりではどうしようもできないような社会的な力。人間関係。そして物理的なこと。距離、時間、お金など。

 

こういうどうしようもできないような部分がなくてつらいというのは、何を求めているのか、または何が障害になっているのかが自覚できていなくて、漠然とつらい場合。自覚できないことに気付いていて、それがつらいこともある。

もしくは、そういう具体的にどうにもならないことに引っかかっているのではなくて、別の部分に問題がある場合。例えば、つらいと発言することで人の気を引きたくなるような他の心の傷があるとか、そういう問題になるのだと思う。

 

存在を揺るがすようなつらい感情に直面したときにどうすればいいか。

わたしがこれまで経験して感じていることは、どうにもならない部分に対するいくつかのアプローチに鍵があるということ。

 

①達成したいけれど達成できずにつらい思いをしている目的それ自体を変えること、忘れること。自分にとってはもう価値がないものであると割り切ってしまうこと。これは有効だけれど、本心からできるかは難しい。それに、これまでの自分のことを否定しまう危険性があること、同じような目的を持って価値観を共有してきた周囲の人々を傷つけてしまう危険性があること。そして、もう価値のないものが増えすぎると、虚無主義に陥って、命を絶とうと考えてしまうようになること。

 

②どうしようもないことは、本当にどうしようもないことなのか、分析すること。つらいときは全てが否定的に思えて、事実を歪んで把握している場合が多い。本当に変えられないのか、実は思い込みにすぎなかったのかもしれないと考えること。こう考えているうちに、「本当にどうしようもない」から、「1%でも可能性がある」に変わるだけで、少しだけ楽になる。これは誰かが話し相手になって、つらい思いをしている人の考えの客観性について検討できるとなおいいと思う。ただ、誰かに言われて、簡単に考えが変わるものでもない。自分で変えられるものでもない。

 

③どうしようもないことを、変えようと何らかの努力をはじめること。千里の道も一歩からと考えて。努力をしているあいだは、目的に向かって有意義な時間を過ごしている感覚とか、少しでも前に進んでいる確信で楽になる。けれど立ち止まって、その先の道の長さにほぼ「どうしようもない」という感情がわいてきて、もう終わりだとか、諦めようとか思う、つらさがやってくる。そういうときには、そんな心の余裕を持つことは難しいけれど、振り返ってそれまでの自分の進捗を確認する。近くに応援してくれる人がいて、すでにこんなにがんばれたし大丈夫、もっとやってみようと思えるととても助ける。それでも、一度「どうしようもない」と思ったことが、すぐに解決するような問題であることは少ないし、人生をかけた戦いになるような困難なものが多い。高山病になりそうなくらいの高さでの登山みたいに、休み休み少しずつ歩いて行くような感覚。

 

④現実逃避。単に棚に上げるという行為。つらいときに、もう、ただつらかったことに気付いてほしいために、死ぬことでアピールするという選択をする人も多い。暗いことや面倒なことに人を巻き込みたくなくて、死ぬという選択肢しかとれない。死ぬくらいなら、お酒飲んで、誰かと遊んで、クラブで騒いで、映画観て泣いて、とか、無害な現実逃避をしていた方がたぶんいい。

 

 

 

 

#「つらい」から「死のう」へと向かう感情について

 

上に書いたように、つらいことがどうにもならないので、ただつらかった、どうにもならなかった、自分は頑張った、誰にも迷惑をかけなかった、最後にそれだけ気付いてほしい、というサインを残したくて、死ぬという選択肢をとるべきかどうか、つらいと思った人の多くは悩むものだと思う。

 

でも死ぬことで残せることは、生きて残せることよりも少ない。生きていれば語ることができる。書くことも、描くこともできる。歌うこともできる。体全体で表現することもできる。表現したものに対する反応も知ることができる、その反応に反論することもできる、感謝することもできる。

 

だからわたしは生きている方が、死ぬよりもずっといいことなんだと思っている。

 

でもそのつらさを誰かに伝えることは非常に勇気のいることだと思う。

 

人につらいと伝えると、おかしな人だとか、関わりたくないだとか思われて、距離を置かれるかもしれないとか、いろんなことを考える。そして本当にそう思う人もいる。でもたとえば美術館に行って、これはあの画家の苦悩を表した絵です、なんて解説があっても、なるほど、すごい迫力、という感じ。また別には、つらかった自身のセクシュアリティについて公表して活動する有名人もいる。その有名人はおそらく、賛同、共感、罵倒、いろんな意見や感情を投げかけられ、尊敬されたり嫌われたりする。伝え方にもいろいろなものがある。難しい。でも、複雑だからこそ、どうやって伝えたいのだろうとか、考えていると、あれこれ考えずに死ぬことだけが伝達手段だなんて思い込んでしまっているのは、あまりにも極端だったかな、と冷静になれる。