存在を揺るがすようなつらさの対処法を考える/「つらい」から「死のう」へと向かう感情について
#存在を揺るがすようなつらさの対処法を考える
ここで話す、つらいの種類。存在を揺るがすようなつらさ。
つらい感情の正体のひとつは、自分は最大限の努力をしているんだけれど、それでもどうにもならない部分があること。たとえば、先天的なもの、体の性別とか、アイデンティティに関わること。これが特に難しいものだと思う。それからひとりではどうしようもできないような社会的な力。人間関係。そして物理的なこと。距離、時間、お金など。
こういうどうしようもできないような部分がなくてつらいというのは、何を求めているのか、または何が障害になっているのかが自覚できていなくて、漠然とつらい場合。自覚できないことに気付いていて、それがつらいこともある。
もしくは、そういう具体的にどうにもならないことに引っかかっているのではなくて、別の部分に問題がある場合。例えば、つらいと発言することで人の気を引きたくなるような他の心の傷があるとか、そういう問題になるのだと思う。
存在を揺るがすようなつらい感情に直面したときにどうすればいいか。
わたしがこれまで経験して感じていることは、どうにもならない部分に対するいくつかのアプローチに鍵があるということ。
①達成したいけれど達成できずにつらい思いをしている目的それ自体を変えること、忘れること。自分にとってはもう価値がないものであると割り切ってしまうこと。これは有効だけれど、本心からできるかは難しい。それに、これまでの自分のことを否定しまう危険性があること、同じような目的を持って価値観を共有してきた周囲の人々を傷つけてしまう危険性があること。そして、もう価値のないものが増えすぎると、虚無主義に陥って、命を絶とうと考えてしまうようになること。
②どうしようもないことは、本当にどうしようもないことなのか、分析すること。つらいときは全てが否定的に思えて、事実を歪んで把握している場合が多い。本当に変えられないのか、実は思い込みにすぎなかったのかもしれないと考えること。こう考えているうちに、「本当にどうしようもない」から、「1%でも可能性がある」に変わるだけで、少しだけ楽になる。これは誰かが話し相手になって、つらい思いをしている人の考えの客観性について検討できるとなおいいと思う。ただ、誰かに言われて、簡単に考えが変わるものでもない。自分で変えられるものでもない。
③どうしようもないことを、変えようと何らかの努力をはじめること。千里の道も一歩からと考えて。努力をしているあいだは、目的に向かって有意義な時間を過ごしている感覚とか、少しでも前に進んでいる確信で楽になる。けれど立ち止まって、その先の道の長さにほぼ「どうしようもない」という感情がわいてきて、もう終わりだとか、諦めようとか思う、つらさがやってくる。そういうときには、そんな心の余裕を持つことは難しいけれど、振り返ってそれまでの自分の進捗を確認する。近くに応援してくれる人がいて、すでにこんなにがんばれたし大丈夫、もっとやってみようと思えるととても助ける。それでも、一度「どうしようもない」と思ったことが、すぐに解決するような問題であることは少ないし、人生をかけた戦いになるような困難なものが多い。高山病になりそうなくらいの高さでの登山みたいに、休み休み少しずつ歩いて行くような感覚。
④現実逃避。単に棚に上げるという行為。つらいときに、もう、ただつらかったことに気付いてほしいために、死ぬことでアピールするという選択をする人も多い。暗いことや面倒なことに人を巻き込みたくなくて、死ぬという選択肢しかとれない。死ぬくらいなら、お酒飲んで、誰かと遊んで、クラブで騒いで、映画観て泣いて、とか、無害な現実逃避をしていた方がたぶんいい。
#「つらい」から「死のう」へと向かう感情について
上に書いたように、つらいことがどうにもならないので、ただつらかった、どうにもならなかった、自分は頑張った、誰にも迷惑をかけなかった、最後にそれだけ気付いてほしい、というサインを残したくて、死ぬという選択肢をとるべきかどうか、つらいと思った人の多くは悩むものだと思う。
でも死ぬことで残せることは、生きて残せることよりも少ない。生きていれば語ることができる。書くことも、描くこともできる。歌うこともできる。体全体で表現することもできる。表現したものに対する反応も知ることができる、その反応に反論することもできる、感謝することもできる。
だからわたしは生きている方が、死ぬよりもずっといいことなんだと思っている。
でもそのつらさを誰かに伝えることは非常に勇気のいることだと思う。
人につらいと伝えると、おかしな人だとか、関わりたくないだとか思われて、距離を置かれるかもしれないとか、いろんなことを考える。そして本当にそう思う人もいる。でもたとえば美術館に行って、これはあの画家の苦悩を表した絵です、なんて解説があっても、なるほど、すごい迫力、という感じ。また別には、つらかった自身のセクシュアリティについて公表して活動する有名人もいる。その有名人はおそらく、賛同、共感、罵倒、いろんな意見や感情を投げかけられ、尊敬されたり嫌われたりする。伝え方にもいろいろなものがある。難しい。でも、複雑だからこそ、どうやって伝えたいのだろうとか、考えていると、あれこれ考えずに死ぬことだけが伝達手段だなんて思い込んでしまっているのは、あまりにも極端だったかな、と冷静になれる。
フリースタイルダンジョンの観覧に行った
フリースタイルダンジョンの観覧に行った。なんというか、すごいやばい以外の言葉が出てこなかった。
このテレビの流行に便乗してるだけの、本物の日本語ラップファンから見たら疎ましがられるようなまだ日本語ラップ事情をよくわかっていない自分でも、このフリースタイルラップバトル魅力というものは本当にすごいものであると思うし、それを称賛したいと思った。
バトルでは、ラッパーは、映画の登場人物みたいに、わかりやすいストーリーではっきり自己を定義する。それぞれにヒップホップをやる理由と背負ってる何かがある。それはラッパー個人の過去で、そしてそれから作り上げられたラッパー自身の価値観で、これからラッパーが歩んでいこうとする確固たるスタイル。ただい、それは事実に基づいているけれど、若干盛ってる。大筋はグレたけど音楽に救われた話。みんなヒップホップドリームを掴もうとしてる。ヒップホップドリームって、しあわせ、みたいな感じ。がんばるとなぜか辿り着くところ。お金があって、友達がいて、パーティ。
その広義の「人間」というものをバトルでdisり合って、それでもなおブレないかっこよさがあることが、フリースタイルラップバトルの勝ちだと思う。
作り上げられた自己像同士の中で戦うからこそ、演劇の台詞みたいな恥ずかしいことも言える。ヒップホップの魂 俺の人生の証、これおわかり?みたいな。でも、多くの人間が心の中で思ってしまっている恥ずかしいことで、それはその恥ずかしい表現以外に表現しようがないけれど、それを演劇的な形式の口実のもとで、恥じらうことなく言い合えるこのラップバトルの舞台って、素晴らしいんじゃないかって思う。演劇なのに、あらすじがなくて、上辺の台詞ではなく本音がでてくる、なんていう転倒。
実際に観てみると、その人だけの人生によって作り上げられた魂をぶつけて捻り出してくる言葉、声、動きに、思いもよらず心動かされて歓声を上げたりする。大学院生としては、論理だけじゃ割り切れないかっこよさがモノを言う勝負に、コンプレックスと憧れを感じながら、ものすごくドキドキした。
そして人間個々がそれぞれの人生のストーリーと形成されたスタイル持っていて、どれも尊敬できるものであることに、人間というものに対する愛おしさを感じる。そしてラップは、中卒の不良と仲間と音楽みたいなステレオタイプな偏見があるけれど、実は誰にでも門戸は開かれている。社畜も自由人も不良も人類皆ラッパー予備軍。わたしも溢れんばかりのかっこいいリリックで相手をかませるように人生に誇りを持って生活したい。
Joy Division/New Orderの権力の美学、殴り書きのメモ
Joy Division/New Orderの魅力について殴り書きのメモ
New Orderの来日公演に初めて行って来た。
以下は、わたしのでたらめな考えであることを前提として。
Joy DivisionもNew Orderも、ナチスに由来を持つ名前だ。
Joy Divisionは、”House of Dolls”から見つけて来た、アウシュビッツのナチス将校向けのユダヤ人売春宿の名前。彼らがアイヒマンをかくまっているのでは、と警察に通報されたこともあるらしい。
New Orderは、新秩序。全体主義運動の名前のひとつ。メンバーはインタビューではカンボジアの革命を伝える新聞記事の見出しから、と言っているが、わたしはナチスのほうなんじゃないか、と思っている。どちらにしても、権力を行使すること、権力を奪取すること、とかそういうものに彼らがバンドの名前の由来にするほどに興味を示していることが重要な話だ。
イアン・カーティスは結婚式でドイツ国家を流し、クラフトワークを愛聴するようなドイツびいきだし、バーナードは初めの頃、サムナーではなくアルブレヒトを名乗っていた。フッキーもナチスの危うい魅力について語っていた。
1つのバンドの曲が、まさかたった1つのテーマで揃っているということは、皆無だと言ってよいと思う。だからJoy Divisionの曲にもたくさんのテーマがある。例えば有名なLove will tear us apartは、恐らくイアンの個人的体験から来る恋愛の苦悩がテーマだし、Atrocity Exhibitionは恐らくJ.G.バラードだ。ここで語りたいこと、彼らのナチス的権力への愛好、それを歌った初期の曲は、WarsawのThey walked in lineだ。この曲の特徴は、他の曲には用いられていないマーチングのドラミングが入ること。そして寄せて返すような単純なコードの反復。walked in line walked in line walked in lineの反復。手拍子。何者かの見えない圧力の元で規則的に動かされる人間のどこか幸せな様子を、冷静に語る歌詞。そして聴き手にはその規則正しい反復が耳に気持ちよく、こういう音楽を好む人間は規律されたい/したい人間なんだと思う。言語化できる欲求や思考が、言語化することはできるがその真偽を検証できない音楽的な感覚によって、裏付けられるかは謎だが。
Joy Divisionの音楽の別の特徴は、少ないコードによる曲の構成だ。そしてチューニングはすこしずらしている。これはかなり調の認識の曖昧さを誘う。調があって、その調の中のコード進行の、一定のルールに導かれて、音楽は終着点に至る。それは西洋古典音楽が長い期間やって来たプロセスで、それは人間の多くの溢れ出る情動を、精一杯に表現できるツールなのだ。しかし、Joy Divisionはそれに逆らうことで、情動を否定し、もしかすると聴き手の情動を押さえつけているかもしれない、それが権力であって、そして機械的な冷たい何かなのだ。まるで止まらない工場の機械のような。それは規則的で反復の多いドラミングと、歌詞の反復によっても、感じるものだ。何かが繰り返し、繰り返し、冷たく、重く、のしかかってくる。そして機械という言葉をはっきりと意識してしまうのは、耳の鋭い聴き手にとっては、ハネットによるデジタル編集の、自然ではない音響。そして徐々に存在感を増してくる、シンセサイザーの音だ。シンセサイザーは、ドイツのクラフトワークが使っていたし、東ベルリンで制作されたボウイのlowでもブライアン・イーノが取り入れた、どこかヨーロッパの香りがするものだった。
そしてイアンはボウイやイギーが好きだった。それはロックンロールスターと言われる人達だ。ボウイはヒトラーを世界初のロックンロールスターと言った。ロックンロールスターは、独裁者とその本質を共有している。個人に対する悪趣味な愛着、幻想のような人物認識が加速すること、影響力、もはや権力。イアンがボーカリストを始めたことと、ナチス趣味を持っていたこと、そこには同じ、権力に対する愛着という欲求が見え隠れしている。彼は独裁者の第一候補だったところを、自らの意志でやめたのだが。
バーナードとフッキーは、暗鬱な音楽には反対だった。ピストルズに感化されてバンドを結成した彼らだったから、先のパンクに見られるような、鋭い刺激を求めていた。それは確かに、Joy Divisionの音楽では、特にスタジオアルバムに収められたような曲では、不足していたのかもしれない。速いテンポだとか、凶暴なギターだとか。それが開花したのがNew Orderだ。彼らの刺激への快楽が全て向けられている。(本当に?と思ってしまうかもしれない。New Orderの快楽は確かに、もはや古いもので、近頃のハードコアテクノとか、ミクスチャーとかそういうものの刺激に慣れている人には、生温いものであるかもしれない。けれど例えば、ピストルズとかダムドを聞いても、我々には同じように、首を傾げてしまう。彼らも昔は最凶だとか言われていたものだ。New Orderも、当時はそんなものだったんだろう。)
New Orderの音楽は、快楽の中で、胸をじわじわと苦しめてくるようなものが多かった。最近のものはそうでもないが。個人的に好きなのは、MovementからLow Lifeまでのあたりだ。明るさの中にあるけだるさと、希望。暑い暑い高校生の夏休みのはじまりのような。そんな音楽。長調と、情動的な歌と、ちょっとした不協和音や短調和音、そしてやはりどこか内省的な部分を捨てきれないような歌詞。イアンとバンドを組んでいた人達だ、と安心できるような。そして、聞いた事もないような電子音。それは音楽の未来を想像して胸が高鳴るような音。
とはいえ、新秩序という名をつけられたNew Orderにも、権力/規律というテーマはあるのだ。それは工場の機械のように規則的な電子ドラムのキック、そしてやはりこだわりの反復だ。それに合わせて聴き手は身体を規則正しく動かしてしまう。なんという全体主義のceremonyだろう。そして聴き手は安定の安心の中にいながらも、我々を操ってくる可逆的権力の根源であるNew Orderの面々に、憧れを抱かずにはいられない!そうだ、彼らがいくら恋だとかなんだとか歌っていても、彼らはやっぱりJoy Divisionだったのだ。
こじつけ的に話せば、ピーター・サヴィルのグラフィックアートも、無人のアートであり、やはりどこか人間的なものからかけ離れたように感じる。そして、彼らの出身であるマンチェスターという街は、産業革命の中心都市で、工場と労働に象徴される近代の、酸いも甘いもを知る都市なのだ。彼らの音楽はマンチェスターのアンビエントだと評され、そしてまた再びマンチェスターを世界水準の都市にした。
マンチェスターが衰退して行く中でも、彼らは機械的な音楽を作り続けた理由は何だろうか。それが故郷だからか。そしてそれが、特に新しい機械、シンセサイザーが、まだ新たな音楽の未来を予兆させるような肯定的な印象を聴き手に与えるのは、もう機械には倦んでいるはずなのに、どうしてだろうか。そして近代の象徴である絶対性、統一、理性、ファシズム的権力、それらに憧れ、わかるように主張し、それらを音楽化し、そして聴き手はなぜか安心している。とてもおかしな矛盾を孕んでいる。
それは我々がまだ近代の申し子であって、ポストモダンの中にあっても、まだポストという接頭語をつけてしか我々のことを語れない状況にあるということである。我々は近代に倦んだはずなのだ、それでもまだ、愛しているのだ。マンチェスターが故郷だったら、そこは一生故郷として、肯定し続けなければいけない。
でも、それはあまり声を大にしては言えなくなってしまったのかもしれない。特に政治の世界ではそうだ。その欲求を満たしてくれるのは、周縁Sub-Cultureの中にあった、音楽だったのだ。大人は一部の若者の、地下組織のような、秘密結社のような、音楽のたしなみをよくは知らない。その中で、毒を抜かれた近代的なものがうずまいていて、皆がそれを堪能していても、社会は大して気にしない。個人の不安から群れる人々を無責任だとか糾弾しない。絶対的な価値観のもとで思考を辞めてもいい。ハーケンクロイツと毛沢東の顔を一緒のTシャツにデザインしてもいい。毒を抜かれた、というのは、独裁者ではなく、ロックンロールスターを目指すところにあるのだ。
ところでその形態は、パンクとポストパンクのあいだにかなり変わった。パンクはまだ近代が許されていた。どうせ周縁なのだから、と。人々は群れをなして暴力をふるった。それはまるで労働組合の集団行動のようなやり口で。そして直接的に政治を批判する歌をたくさん歌って、政治家をばかにした。厳密な知性がなくても、市民である自分が、国家による政治によって利益を被るべき存在であるということを強く自負しながら。
しかしポストパンクの時代には、もはや国家による政治はないものとされ、集団は解散した。それは不満の冬や、保守党政権への交代という社会的な風潮が背景にあるのかもしれない。それによって人々は、ポストパンクを求めた。敵がわからなくなった。パンクでは生きて行けなくなった。わかるのは、怒りと衝動だけだった。その一つが、Joy Divisionだった(あとはたぶん、Talking HeadsとかPop Groupとか、Magazineとか。もう少し直情的な層は、Oi!とかスキンヘッズになっていったんだろう。)。そして、その少し後の時代にはNew Order。もしくは、The CureやThe Smiths、Stone Rosesなんかが頼りだった人もいた。
Don’t forget the song that saved your life、とMorrisseyは歌っている。音楽は人生となり、人生は音楽となる。
それを楽しんでいた若者たちの正体は一体何なのだろう。捨てられない人間の本質なんだろうか。それともその一部の若者たちが、何らかの能力不足か、当時の病理にやられていたのだろうか。モダンとは何なのだろう。若者とは何なのだろう。音楽とは何なのだろう。ただそれは感傷的な甘美さを催させ、人々を虜にし続ける。
わたしにとっての運命の相手はJoy Division、そしてちょとNew Orderだった。
MOTHER3を、大人になって、初めてやった
12とプレイしてみたので、せっかくなら3も、ということで今更3も初めてやってみました。
バーチャルコンソールでの配信が決定したそうで、偶然にもとてもタイムリーです!
3については評価が別れているようですが、12をプレイした心持ちで3をはじめると、拍子抜けしてしまうのは確か。
まず、12のように私は「ぼく」ではない。
3は「ぼく」の冒険の物語ではない、ノーウェア島に住む少年「リュカ」の物語を眺めるものだ。
しかも、リュカがプレイヤーを代表しているかといえば、そうでもない。
リュカはどちらかといえば特殊な境遇に生まれた少年だ。
そして、2までは、主人公が寡黙であること、そして世界について多くのことが語られないために、不可解な現象の連続に身を任せているうちに、それはまるで私の世界のどこかの端の延長線上に存在するのかもしれない気がした冒険であった一方で、3は世界のことが多く語られる。
ゲームが進行するにつれて、こういう出来事があったのだから、このタツマイリはこうなったのだ、ということがゲームの中で決められ、ある種の思い込みを強制させられる。
そしてリュカの境遇はあまりにも暗い。
また、操作するプレイヤーがすぐに変わる。
よくわからない人間をよくわからないまま操作させられる。
2までは、冒険が進むにつれて「ぼく」に対する思い入れが強まって行くものだったけれど、こんなにもすぐに変わってしまうから、しばらくゲームの中での定位置を見つけられずにいる。
こういう点で、初めは少しゲームを進めるのが億劫になってしまった。
でも、最終的には私は3が一番好きになった。
まずは、単純にゲームとして2よりも便利になったこと。
そして、音楽好きがにやにやしてしまうようなものも含めて、耳になじみやすい音楽に合わせた、サウンドバトルが面白いこと。
中ボス戦で使われる「いわれなきリベンジ」は、本当に名曲。
「いれれなきリベンジ」は中盤の掛け合いが4パートあって、その音色がそれぞれ違う、そして最後には大きなクライマックスを迎える。
まるで4人が力を合わせて戦っているようで、そして私はリズムに合わせてボタンを押す、その身体の感覚は、どこか神秘的な高揚感がある!
そして2から引き継がれたカウントダウンHPのタイムリミットという制限もまた、良いものでした。(リズムに合わせてボタンを押したいがために面倒な戦法をとってみたり、タイムリミットに焦りながらもところどころリズムを打ってみたり、とか。)
また、ゲーム随所で流れる「あのお方のテーマ」が、手を替え品を替えあらゆる変奏曲として流れてくるのは嬉しい物で、ゲームが進むにつれて、曲の全貌が明らかになっていく演出がよかった。
そして、このゲームでも泣いてしまったのは、ストーリーでもエンディングでもなく、やはり123とシリーズをプレイしたプレイヤー自身に関わる演出の部分。
そういう面では2のようなものを3にも求めていたのかも知れない。
まず「ポーキーのポーキー」。
3和音のファミコンのような音源、コードを聞かせるための高速アルペジオ、ゲームボーイ世代の私にとっては懐かしい音で、それは恐らく2の世界が本来の居場所であったポーキーにとっても懐かしいものであって、やはりそのSFCに執着するポーキーの痛切な心が表れていて、とてもかなしい。
あのSFCの世界にしがみついていたい、ポーキーも少年の頃に戻ればやり直せるかもしれない、しかし愛情、友情、そして冒険という不完全だった少年時代に対する未練と執着、そして私のような大人の少年時代への懐古、それらが重なり合う、痛切な音。
そして、ポーキーが出てくるということが、なんとなく予感していたラスボスで、彼が姿を表すことに、エンディングの気配、このゲームの終わりを悟り、またゲームをおいて元の世界に戻らなければいけない、というような切ない感覚も滲んでくる。
そのような感覚は、何度も繰り返し聞かされて来た音楽のアレンジが試行錯誤して完成したような「ホントのWELCOME!」、ニューポークシティの「映画館でせんべいは食べないで」やDCMC最後のライブ、そして、「ポーキーのポーキー的な前作からの締めくくりを思わせるのは、「タイム・パッセージ」「だれかさんのおもいで」でも感じた。
リュカの成長、家族の絆、それはそれでいいお話なのかもしれない、それでも、それより、自分にとってのこのゲームの存在と現実という舞台が、やはり頭の中によぎってしまう。
それはおそらく2でも物足りなくなってしまった自分にくれた、少年としてプレイするための最後のゲームとして与えられたものがマザー3だったように思う。
もちろん、最後にはまた戻って来てね、何度でも会えるから、と言われる。
1のマジカントと同じように。
私はまだ、マザーに戻って来れる。
そしてもう一つ、私が3を好きになった理由。
それは、ネスよりもリュカが好きだからです。
3のポーキーを見れば、ポーキーを止められるのはネスだけだったのではという気持ちになる。
思えば、ネスは非常に恵まれている。
優しい家族、仲間、ガールフレンド、そして運命付けられた少年としての冒険。
決して嫌いというわけではないけれど、なんだかそういうものが当たり前のように用意されていることが、少し憎らしく思えてくるようになってしまった。
リュカには色々なものが欠けていた。
しかも、リュカの冒険は、運命付けられたものではなかったようにも思う。
ハリを抜く適任者としての資格も、彼と決まっていたわけではないように感じた。
それはタツマイリの村がひとつの劇であったという話からも、リュカがハリを抜く係として皆に思い込ませる結果となったとも考えられる。
はじめにいろいろなキャラクターを操作して、最終的に3人+犬に落ち着くというストーリーは、おそらく英雄、2で言うような運命付けられた人間、になる可能性のあったキャラクターを操作していたのでないかと思う。
リュカを最終的に主人公にするという演出は、リュカが強くなることを他のキャラクターよりも強く望んだ人物だったから、という演出なのではないか。
ところで、フリントはフランクリンバッチを持っていて、「祈ればどうにかなるんじゃなかったの?おとうさん?」という趣旨のリュカのセリフから、ネスと何か関係あるのでは、と勘繰ってしまう。
もしフリントがネスの将来の姿であるとすれば、または、ネス的な役割のものとして描かれているとすればどうだろう。本作で操作パーティに入らなかった彼は、冒険の可能性を捨てた人物ということになる。
やはりネスは、ネス的な人物は、仲間と、家族という恵まれた環境がなければ、世界を救えなかったのではないか。
そしてガールフレンドを救ったサルサは、冒険の仲間からは去って行く。
一方リュカは、クマトラは、ダスターは、身の回りが不完全ながらも自立して、強くなっていった。
そして、不完全だったポーキーが、彼らとは正反対の方向へと向かって行ってしまった者が、最後の、悪役。
3は、「かぞくがいなくてもつよくいきる」ということがテーマなのではないか?
と頭によぎる。
そしてリュカが「ぼく」ではなくて「リュカ」として認識される。
その家族の境遇も、一般的に言って、多くの人は「ぼく」の側の人間である可能性が高く、「リュカ」という、少し異質な立場の人間の物語も、しばらく傍観していってくれないかということなのではないかと思う。
そして、リュカの物語に付き合うと、最後には、リュカらしき人物が「ありがとう」という言葉をかけてくれる。
そう結論づけたとき、私はネスよりもリュカの方が"かっこいい"、と思った。
ところで、2と3の間には10年の年月の隔たりがあるが、その間に世界も大きく変わってしまったと思う。
ステータスで評価されるよりも、何ができるかということに少しずつ、少しずつだけれど、社会で行きのびるために必要な人間の資質が傾いて行っているような気がする。
学校を卒業すればもう大丈夫、いい会社に入ればもう大丈夫、家族がいれば大丈夫、というわけでは、必ずしもない。
2では、私は冒険を終えてしまえばもう大丈夫だという錯覚を持った。
ネスはきっと立派な大人になり、結婚して、幸せに暮らすんだろう、という余韻が、ゲームを終えた後に残る。
しかし、3は?
新しい世界が作られただけだ、新しい白紙の世界で、また人は少しずつなにかを絶えず築いていかなければいけないはずだ。
リュカは、ゲームの中でも、つらい経験から立ち直って、少しずつ強くなって、自己を更新していった、それはゲームが終わったから終わるものではなくて、そのあとも生きている限り永久に続けていくものだろう。
2では、ゲームが終わるとき、友人を得て、ガールフレンドを得て、賞賛を得て、と、なにか得るものがある。
ではリュカは?
リュカの冒険で得た物がないわけではない、確かに仲間もいた、しかしそれはほとんど内面的な成長で、社会的な、物質的ななにかではない。
そういったものに頼って、変わっていくことをやめてしまうのは、もう違うことなのかもしれない。
リュカは、最近の、もしかしたらこれからの、新しいヒーローなのかもしれない。
もちろん2のような生き方が完全になくなるわけではないだろうし、そういったものを否定する気はない、理想的な人生の一つの形ではあると思う。
そういった今までも一部の人々の夢であったし、これからも一部の人々のあいだでは夢であると思う。
しかし、他の一部の人々は、これまでもそのような人々はいたけれど、リュカのような生き方を望みはじめている、またはそうせざるを得ない状況に置かれている。
そして私も、その人々の一部だと思う。
やっぱり私は、リュカとマザー3が好きだ。
そして私も、私の世界で生きて行こう、と決意する。
MOTHER1+2を、大人になって、初めてやった
Mother1+2というゲームを、大人になって初めてやりました。
2まで完全にやり終えたとき、私はどうしても泣いてしまった。
ゲームの中では、私は完全に子供である「ぼく」。
「ぼく」はふつうのこどもで、少しだけ超能力が使えるけれど、外に出ればちょっと凶暴な犬だとか、怖いお兄さんにからまれたり、えらい大人の事情にふりまわされて、すぐに痛い目にあう。
ちょっと遠くまででかけると、ママのおいしいごはんが恋しくなって、家に帰りたくてたまらなくなる。
それでも、目の前に困っている人がいて、よくわからないけれど悪いことをしているやつがたくさんいるから、少しずつ勇気をふりしぼって、ボロボロになっても、少し休んでまた立ち上がって、少しずつ強くなっていく。
しかも、どうやら「ぼく」が世界を救うかもしれないことになっている。
ほんとうに?と疑いながらも、悪いやつはどんどん悪いことを思いついて、「ぼく」も少しだけ強くなれたから、戦ってみようと思う、そのうちに、「ぼく」が戦わないといけない、という気持ちが、膨らんでくる。
そうしているうちに、一緒に戦ってくれる友達ができて、できることでできないことを補いながら、いつのまにか遠くの場所に来てしまったような気がして、弱虫だった「ぼく」が、とっても強い「ぼく」になったような気がして、本当に世界を救ってしまった。
でも「ぼく」はこどもだ。
遠くの街では、「ぼく」の気持ちをわかってくれる大人が、大人どころか宇宙人や動物までも、やさしく見守ってくれる。
時々、ヒントをくれる。
そんなこと、きっと大人の中ではあたりまえのことなのかもしれないけれど、こどもの「ぼく」には、知らないことばかりだった。
危ないことにならないように、実は見張ってくれていたのかもしれない。
「ぼく」は本当に世界を救ったんだろうか?「世界」って、どこまでだろう?
「ぼく」が世界を救ったら、大人たちは、「ぼく」をほんとうにほめてくれた
勇気があって、思いやりがあって、どんなことがあってもあきらめないで、がんばったんだって。
「ぼく」はほんとうにえらい、いい子なんだって。
でもそれが虚構である事を、私は見抜いている。
ゲームをクリアすると、友達はそれぞれの生活に戻り、「ぼく」も家に帰る。
それは夏休みの一瞬の冒険だったのかも知れない。
「ぼく」もこれからは遊んで勉強して、立派な大人になるんだ。
ポーラやジェフといった友達も、それぞれの夢を叶えるために頑張っている、もしかしたら、また会う日が来るような気がする。
私もそろそろゲームを置いて、帰らなければいけない。
この世界はゲームのように守られた世界ではない。
ゲームが終わるとき、そのゲームの中の優しい世界から、飛び出さないといけない。
それは少し、怖い。
もう少しこのゲームの世界の中にいたいと思うけれど、きっとそういう訳にはいかない。
子供が母に守られているような空間で、ずっと母の手を握りながら、泣いている訳にはいかない。
私も「しばらく、さようなら」と、声をかける。
そして今日、いつもより少しだけ勇気を出そうと思える。
Motherはそんなゲームだ。
私が幼い頃に遊んだポケモンも、そんなゲームだった。
マサラタウンの家のテレビで、スタンド・バイ・ミーのように線路を歩いてる子供が「ぼく、もういかなきゃ!」と言う。
それはゲームの中で冒険が始まるときに目にするセリフでもあり、
ゲームを終えて家に戻って来たときに、もう一度目にするセリフだ。
もういかなきゃ、私自身の人生に、生活に、戻らなければ。
それでもどうにもうまくいかないこともある。
でも、そんな時に、また私はMotherに帰ってくることもできる。
「きっと また かえってくるのよ。
くるしいときに ここに……
みんな あなたたちを
すきなんだから。」
( Mother1 マジカント クイーンマリーの城より)
Reading Festival 2013に1人で行ってきました
※大学生の時に書いていたブログを閉鎖しようと思ったところ、この記事は有用そうな記事だったので加筆修正してのせることにしました
電車では半分眠りながら揺られて(意外と他に寝ている人も多かった)、各駅停車だったので行きとは違って遅い。